衆議院選挙が終わった。
選挙権が18歳以上になったわけだが、
今回の選挙で若者達の大勢は保守だった。
「現状に満足している」とか「現状維持志向」とか、
「テレビで見ている有名な人にいれる」とか、
コメンテーター達はいろいろ言っているが、
本当にそうか?
子供達の貧困が問題になっている時代に、それを身近に見てきた若者達が
現状に満足していると?
若者達が満足できるような現状があるとコメンテーター達は本気で思っているのだろうか?
「テレビで見ている有名な人にいれる」という傾向が仮にあるとして、
それって若者達だけのことか?
コメンテーター達はもっともらしい理由を探しているだけではないのか?
思い出してみると、
国会の周辺で安保法制反対のデモがおこなわれていたのはほんの2年前である。
SEALDsという若者達がいて、彼等の活動が日本の政治を変えるだろうと言われた。
マスコミも高揚し、学者や芸能人までデモに出てきた。
ちなみに短歌の世界でもそれに呼応するような高揚があった(^^;
あれはなんだったのだろうか?
SEALDsの高揚はなぜ同世代の若者達の大勢にはならなかったのか?
今の若者達は子供の頃に民主党政権を見ている。
「見ている」というのは、そのままの意味である。
福島の原発事故も尖閣での漁船衝突事件も、
文字通りリアルタイムの映像で「見ている」のである。
彼等にとって、放射能が関東までやってくるかもしれないという恐怖も、
中国の恫喝に直面したこの国の安全保障も、
「他人事」ではなく、
自分あるいは自分の国の問題として認識することがフツーの感覚だったのかもしれない。
そうだとしたら、そういう彼等が、
冷戦構造に守られた平和の中で観念で平和を語ればよかった戦後の平和主義者と
異質なのは当然であろう。
観念で語られる平和は、実は「他人事」としての平和である。
しかし、1989年、ベルリンの壁が崩れ冷戦は終わった。
それは冷戦構造に守られた平和の終わりだった。
そのことに観念で平和を語ることに慣れた人達は気付いたであろうか?
右とか左とかいう話ではなく、
少なくとも、現実の問題に向き合うときに観念でものを語っても意味はないわけで、
現代の若者達の保守傾向というのは、
非難されるものでも失望されるものでもなく、
むしろ自然なものなのかもしれない。
今まで観念でものを語ることに慣れた向きは、
少し考え方を変えた方がいいかもしれない。
2年前の安保法制反対のデモやSEALDsの高揚はなんだったのか、
考えた方がいいのだろう。
というか、考えていれば今回の選挙の結果も多少は違っていたのかもしれない。
今日、木枯らし一号 木枯らしのなかで欅が揺れていた