短歌結社の「短歌人」から結社誌が送られてきた。
会員ではないのだが、本の批評の関係で送ってくれたようで、
せっかく送ってきてくれたので、ぱらぱらと読ませてもらった。
「同人」という欄があり、「会員1」「会員2」という欄がある。
全体のなかで割りと「同人」のスペースが広いので、結社である程度活動していると
「同人」になるようなシステムなのだろうか?
それぞれの選歌欄には選者の名前は出ていない。
どの選歌欄を担当するとか、そういう感じでは決まっていないのか、
短歌人のことはよく知らないので、
どういう感じなんだろうと誌面をぱらぱら捲りながらそんなことを考えた。
ま、それはそれとして、ちょっと気になった記事がひとつ。
「自作自解の可能/不可能」という記事で、斎藤寛が書いている。
角川短歌に出た
水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水
という歌について、作者の服部真理子がラジオ番組で
「『水仙』には暗い所で匂いだけが伝わってくるイメージやナルキッソスの
エピソードなどがあり、何かあやうい感じがする。『盗聴』にも禁じられたことを
するというあやうさがある。この二語をぶつけて、そこへ、あやうさで傾いた自分の
中で動くモヤッとした不思議なものを配したら、何かいい雰囲気が出せるかなと思った。
だが私の意図は決して『正解』ではない。読者が自由に読んでくれればよい」
という自解をしたという話があり、
これに続いて斎藤寛の自作自解についての話があるわけだが、なかなか面白かった。
「水仙と盗聴」の歌、いわゆる「分からない歌」である。
しかし、およそ短歌について、分かる必要はないと思っている。
もちろん、短歌を始めた頃は「分かろう」と思った。
しかし、やがて思うようになった。
短歌は「分かる」ものではなく「感じる」ものだと。
だから、分からない歌は分からないまま鑑賞しようと思っている。
斎藤寛の文章のなかで、
「俳句における二物取り合わせにおいて最も深いのは『潜在意識の暗やみの中で
つながっている』場合だと寺田寅彦は述べていたが、それに倣うなら・・・の
作品は潜在的連想系の中での多物取り合わせなのではないかと思えてくる」
というあたりは納得がいった。
「潜在的意識の暗やみ」「潜在的連想系」、
この辺が「分からない」歌の鑑賞という点で重要なことである気がする。
いずれにしろ、服部真理子の自作自解、おそらくラジオの番組で
短歌をあまり知らない人達向けの話ということでしたのであろうが、
「水仙と盗聴」の歌がむしろ底の浅いものに感じてしまう自解で、
しない方が良かった気がする。
歌会のあとで自作について滔々と自解する人がたまにいるのだが、
私は聞かれたとき「読者がそれぞれに読んで頂ければ」と答えることにしている。
自作自解はよく考えてからにした方が良さそうである。
そろそろ紫陽花の季節