2016年12月

虹を見た。

車で走っていたら大きな虹が住宅地の上に架かっていた。

ひさしぶりに虹を見た気がした。

ここしばらく忙しくて、ブログも書けなかったが、

そう言えば、今年の最初の方で、虹の短歌についてブログに書いたのを思い出した。

 

  君と見し北のくちなはその虹を我が知らぬ愛の言葉とおもひき

                             / 水原紫苑

  蛍田てふ駅に降りたち一分の間にみたざる虹とあひたり

                             / 小中英之

  最上川の上空にして残れるはいまだ美しき虹の断片

                             / 齋藤茂吉

 

ゆっくり虹を見上げることもない生活をしている。

その辺をもう少しなんとかしたい気がする。

時の移ろいにもっと目を向けて生きていたい。

人生のなかの一瞬を掬い上げ、その美しさなり記憶なりをなんらかの形で留めたい。

短歌はそういう営みのひとつであるのだが、

忙しさに追われて歌を詠うこともままならない。

その辺、なんとかしたい。

そんなことを考えつつ、

やはり今日も走り回っているのである(^^;

そんなふうに年が暮れてゆく。

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 車から撮った虹 ちょっと見えにくいか

納射会

アーチェリーの射場の納射会。

常連達が集まり、和気藹々とコースを半分だけ回り、あとは餅つき。

ついでに焚き火でけんちん汁を作る。

けんちん汁作りながら、醤油が足りないとか、味噌を入れろとか、船頭多くして

なんとやらだったが、最終的にはそれらしいものになった。

射場に置いてあるキノコの榾木から採れたナメコもけんちん汁に入れたのだが、

スーパーで売っているナメコと違って大きくなっているので、

一見、ナメコとは違うようにも見える。

ま、笑いだしたりお腹が痛くなったりした人は出なかったので、

やはりナメコだっのだろう(^^;

今年は、椎茸のほかにナメコ、ヒラタケも収穫できたが、

来年は上の畑で作っている自然薯が収穫できるだろう。楽しみである。

もち米が炊き上がり臼で餅をつく、子供達も交えての餅つき。

お餅って、つきたては柔らかくて美味しい。

つきたてのお餅を食べるとスーパーで売っている切り餅が

美味しく思えなくなってしまうのが困るところではある。

先日、歌会で福島に行ったときに鐘埼の福島店から納射会の前日着で送ってもらった

笹かまを持っていったのだが好評だった。

仙台の鐘崎の笹かまぼこ、大きくて分厚くて食いでがある。

けんちん汁に入れて食べれば美味しんじゃないかと言ったら、

皆から、そんな勿体ないこと出来るかと顰蹙を買った(^^;;

いずれにせよ好評な笹かまぼこなので、鐘埼のHPを案内しておく↓

                    http://www.kanezaki.co.jp/

わいわいがやがややりながら、楽しく半日過した。

また来年もこの射場でいろいろ楽しもうと思う。

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  船頭多くしてなんとやらのけんちん汁だったが、美味しかった
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  鐘崎のHPから勝手に取ってきた笹かまの写真。肉厚で美味しい。
 HPから勝手に取ってきたけど宣伝してやってるんだから怒りはせんだろう(^^;;;

歌会

ひさしぶりに短歌の歌会で福島へ。

忘年歌会を飯坂温泉でやるというので、

歌会に出てそのあとは一晩泊まり、のんびり温泉に入って帰ってこようという算段。

歌会の会場は飯坂温泉の堀切邸。

江戸時代から続く豪農の屋敷で、史跡として整備され見学できるようになっている。

その一室を借りての歌会。どうでもいいけど、昔の建物って天井が高い。

で、気になった歌。

誌面発表前なのでここには出せないが、

ワードで「じょせん」と入力したらこの度は「序戦」と返りくる、

そんな歌意の歌。

「じょせん」は本来は「除染」であろう。

福島の原発事故の除染。

しかし、その「じょせん」をワードで変換しようとしたら「序戦」というのが出てきた。

そういう意味だが、

この歌についていろいろと意見があった。

「除染」に変換しようとしたら「序戦」が出てきて、最近の南スーダンへの自衛隊派遣

のように、それが次の戦争につながる「序戦」を想起させるものがある。

原発事故の「じょせん」から次の戦争の「じょせん」、
そういう怖さを表現しているのではないか、

そんなような意見。

で、考えてみたのだが、

この歌はそこまで考えて作られた歌ではないのではないか?

そんな気がした。

「この度は」「返りくる」というのが、なにやら意味ありげで、

そういう読みに繋がるのかもしれないが、

「序戦」から南スーダンへの派遣、そして次の戦争、という繋がりには
ちょっと
無理がある気がする。

まず「序戦」という言葉だが、

最初の戦い、みたいな意味だろうか、

スポーツとか選挙で使いそうな言葉で、戦争に使ってもおかしくはないのだが、

一連の継続したものの最初、というイメージがある。

南スーダンへの派遣、そういう方向に国が向かい、やがて次の戦争へ、という

のは、大きな流れとしては一連のものだという見方もあるのかもしれないが、

どうも、継続した戦争の「序戦」というのではない気がして、

もし、そういうことを表現したかったとしたら、言葉の選択に問題がある気がする。

「序戦」というより、戦争に向かう時代の「序章」というのなら分かるのだが...。

それともうひとつ気になったのは、歌会で言われたように、

もし、この歌が、そういう時代の怖さを表現しているとすれば、

「この度は」「返りくる」とことさらに言っているのが、

作者の意図する方向に読みを持っていこうとするのが透けて見えてしまい、

社会詠としては失敗なのではないか?

自分の思想なり政治的傾向を31文字にする向きもいるわけだが、

実感の裏打ちがないと失敗するし、

ことさらに言おうとする感じが伝わってしまうと、

読んでいて鼻白むということもある。

安易な社会詠にはその手の失敗が多い。

だから、私にはこの歌は、歌会で言われたような、

次の戦争へつながる怖さ、というふうには読めなかった。

「除染」と変換しようとしたら今回は「序戦」と出てしまった。

原発事故って、こんなふうにだんだん忘れられていくのだろうか?

そんな気持ちを表現したかったのではないかと思ったのである。

で、そうであれば「この度は」が不必要な意味を感じさせてしまう言葉で、

これが失敗なのではないか?

そんな気がした。

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  飯坂温泉 堀切邸

なにはともあれ、楽しく歌会をして、そのあとはホテルに移動して忘年会。

ただ、私はそちらの方は遠慮させてもらい、

別の宿に泊まってのんびり温泉に入り疲れを癒した。

東北のオバチャン達、酒を呑むとウワバミになるので付き合っていたら体が持たない

と思ってそうしたのだが、翌日、飯坂温泉の駅でばったり会った男性の参加者が

青白い顔をしていた。聞いたら2時まで付き合わされたそうで、案の定である。

あの東北のオバチャン達と付き合うコツは、

一歩も二歩も下がって東北のオバチャン達の影を踏まず、これに尽きる(^^;

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  宿泊した、ほりえや旅館 築100年の老舗旅館
 部屋の出入り口が障子なので、鍵がかからないとか
 その辺が気になる人には不向きだが、安くて趣あり。
 一泊朝食付きで6500円だったが、楽天のポイントがあって、
 4150円で済んでしまった。

今年は歌会に出たのがこれで6回ぐらいだろうか。

以前、月に3回も4回も出ていたのと比べると随分少なくなってしまったが、

ひとつには、歌会に回数たくさん出ても必ずしも作歌にはつながらない、

そう思うようになったからである。

歌の批評は批評でもちろん大切なのだが、

作歌に専念する時間というのも確保しないと歌は作れない。

それともうひとつは、やはり忙しくて歌会に出られる時間そのものが減ってしまった。

この辺はもう少しどうにかしたいと思っている。

来年は、せめて月に一度は歌会に出られるようにしたいと思ってはいるのだが、

さてさて、どうなるものか。

役員選挙

2年に一度、税理士会支部の役員選挙がある。

今年がちょうどその年。

先日の月例会で選挙結果が発表されたが、

顔触れはあまり変わらない。

もっと若い人達が出てきてくれればいいと思うのだが、

新しい若い幹事は数人で、他は今までの幹事がそのまま。

支部の会合に出てこない会員も多いわけで、

そういう会員が役員選挙で投票すれば、

結局、現幹事に票を入れることが多くなるわけである。

つまり、一回、幹事になると抜けにくくなる(^^;

で、結局、来期も別の部の部長をやらされることになった。

業界のためには若い元気な人が中心になってやってもらった方がいいと思う。

時代はどんどん変わるわけで、

それに付いていける人がリーダー的な役割をした方がいい。

部長はそういう若い人に任せ、

ある程度の年になった者は副部長とかで、若いリーダーを支えるような、

そういう役目に回った方がいいと思うんだがな...

ちなみに、支部の役員って忙しいくせに報酬はゼロ。

ま、当たり前といえば当たり前の話だが、

人によっては、そういう役を引き受けるのが嫌で出来るだけ支部の会合に

出てこないという人もいる。

出てこなければ顔を覚えられることもないわけで、役員に選出されることもない。

実は、かくいう自分もここ何年も支部の忘年会とか、そういう宴会の席は

出来るだけ欠席するようにしている。

顔を出さないようにしていれば選挙で落としてもらえるだろうという目論見である(^^;;

残念ながら目論見どおりにいかないわけであるが、

ま、もう2年役に立てと言われればするべきことはするつもりである。

責務からは逃げない。

されど引き受けなくてもいい責務ならそれにこしたこともないわけで(^^;;;

役員選挙の結果発表の日も月例会に続けて忘年会があったのだが、

忘年会は欠席でさっさと帰ってきた。

2年後の役員選挙で落としてもらうために、
今から出来るだけ顔を出さなくても
いいところには顔を出さないのである(^^

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   冬の公園

ガダルカナル5

戦跡ツアーを終えてガダルカナル最後の夜、キタノメンダナホテルで食事を摂る。

日系のホテルなので和食レストランがあり、寿司があるというので食べてみた。

シャリがいまいちではあるが、ネタは新鮮でまずまず美味しい寿司だった。

ボルネオのコタキナバルで食べた寿司のような正体不明のものは出てこなくて、

いたってオーソドックスな寿司である。

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    キタノメンダナホテルの和食レストランの寿司
 

かつてこの島で激しい戦争があり、多くの若者が死んだ。

その悲惨があった現場を歩き、思ったことが幾つかある。

ひとつには戦後言われていた、

海軍は合理的で戦争には反対だった、陸軍は固陋で精神主義で戦争に積極的だった、

という通説への疑問。

海軍はなぜソロモン諸島に進出したのだろうか?

海軍はソロモンからニューカレドニアあたりまで進出してオーストラリアを孤立化させ

たいと考えていたらしいが、通説で言われているように海軍が合理的だったのなら、

そこが日本軍の補給の限界線を越えていることに気付いたはずである。

実際、陸軍は気付いていた。ゆえにソロモン方面への戦線拡大に反対していたが、

建設途中のルンガ飛行場をアメリカ軍に奪われた海軍に頼まれて部隊を派遣する。

名将山本五十六というのも戦後の通説のひとつだが、

なぜ彼はソロモンの消耗戦に日本を引き摺り込んだのだろうか?

もうひとつ、陸軍は固陋で精神主義という通説に反するのがその撤退作戦である。

戦線を維持できなくなったとき、陸軍は飢えた兵士達を見捨てなかった。

海軍の全面的な協力のもと、困難な撤退作戦を成功させた。

確かにガダルカナルで陸軍は兵力の逐次投入や無謀な突撃で失敗を繰り返し、

撤退にしても遅きに失したという非難はあるだろうが、

この撤退作戦は見事である。

そこにはのちのインパール作戦のような、現実無視も責任放棄も兵士の遺棄もない。

通説としていわれていることを鵜呑みにしていいのかどうか、

それを考える姿勢は、たぶん、どんなところでも重要であろう。

そのほかにも思ったことは幾つもある。

子供の時に読んだ太平洋戦争の本に載っていた大勢の日本兵が半ば砂に埋もれて斃れて

いる写真。その悲惨の現場を訪ね、なぜ、こんなところでと思った。

指揮官の質に問題があったはずで、
日本の軍隊の体質、あるいは明治以降のエリート教育の失敗、
そういうことにも思いは及んだわけだが、長くなるので割愛する。
いずれにせよ、戦争の悲惨に目を向けることは、平和を思うために必要なことである。

戦後の日本の平和主義の危うさは、

ひとつにはアレルギー的に戦争に目を向けることを拒否したことから来ている。

戦争の悲惨を知ってこそ、

観念ではなく実感として平和の大切さを知ることが出来るのではないのか?

なぜ、戦争は起きたのか?

そこで人々はどう行動したのか?

それを知ることは平和の尊とさを知るときに大切なはずだ。

多くの若い兵士達が徒に死ななければならなかった。

彼等は誰かの息子であり、誰かの夫であり、誰かの父であったはずだ。

彼等の無念を思うとやるせない気持ちになる。

彼等の死を思い、平和を思う。

ガダルカナルの戦いから70数年経ったのちの我等に出来ることは、

そういうことではないのだろうか。

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  キタノメンダナホテルからの眺め 向こうに見える島はフロリダ島
 ガダルカナル戦の初期に壊滅した海軍水上機部隊の基地ツラギのあったところ。

ガダルカナル4

戦跡ツアー2日目、今日は島の西に向かう。

ホニアラから海岸沿いに西に向かうと、だんだん周囲の様子が変わってくる。

家が少なくなり、建っている家の様子も貧しい感じになってくる。

昨日、島の東側に行ったときは、パームオイルを作っている地域もあって、

そのあたりは小奇麗な家が建っていた。

貧富の差がかなりあるようだ。

道路も舗装されていなくて、本格的な雨季になれば泥濘になるのかもしれない。

途中何か所かあった橋も、橋と道路の接続部分が崩れかかっているところもあり、

インフラ整備にはかなり問題ありそうだ。

1時間半くらい走ったのだろうか、島の西端に近いカミンボに着く。

カミンボはガダルカナルからの日本軍最後の撤退の地である。

ルンガ飛行場の奪還に失敗し、補給もままならず戦線を維持できなくなった日本軍は

ガダルカナルからの撤退を決定し、兵士達は島の西部、エスペランス岬への集結を

命じられる。撤退作戦は昭和1821日から7日にかけて実施され、

一万人以上の日本兵がガダルカナルから救出された。

その最後の撤退地がカミンボ。

昭和1827日、この浜の沖に日本海軍の駆逐艦隊が姿をあらわし、

兵士達を乗せて待機していた舟艇の群れが島を離れた。

戦史では、すべての日本軍が撤退に成功したということになっている。

しかし実際は独歩不能な100人以上の兵士達と彼等を指揮する宮野政治中尉が島に残り、

最後の抵抗線を敷いていた。歩行不能な兵士達は塹壕に体を横たえたまま銃を撃ち続け

たのだろうか。何人かは捕虜となり、戦後、帰国したらしい。

おそらく彼等だけでなく、集結日時に間に合わず取り残された兵士達もいただろう。

彼等はどういう思いでこの浜から海を見たのだろう。

今、カミンボの海岸には小さな慰霊碑がひとつあるだけである。

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  カミンボの海岸の小さな慰霊碑
   ※ 書いてから気付きました。
   この慰霊碑は撤退地のひとつタンベアで、カミンボではありません。
   カミンボはこの次の舟が接岸して豚を運んでいたところ。

カミンボからエスペランス岬に向かう。

途中、やはり日本軍の撤退地のひとつだった海岸に立ち寄ると、

海の向こうから船がやってきて浜に接岸した。

どこにいたのか村人達が駆け集まってきて賑やかになる。

ガイドの話では市が開かれるという。

船から豚を一匹担ぎ出してトラックに載せる写真を撮って、エスペランスへ。

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  別の浜から来たのであろう船、そのまま浜に接岸
 ※ こちらが日本軍最後の撤退の地カミンボ

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  船で運んできた豚を車に積む

だんだん雨が降ってきた。

エスペランス岬、ガイドがここがエスペランス岬だと言うのだが、地形的に岬ではない。

地図を持ってきて場所を確認する。海の向こうにうっすらとサボ島が見え、

それで大体の位置が分かった。

たぶん、我々がたっている海岸より少し西に出っ張っている小さな岬が

エスペランス岬だろう。

エスペランス岬に集結せよと兵士達は命じられたわけだが、

実際の撤退地はエスペランス周辺の海岸であって岬そのものではない。

たぶん、そういうことである。

ちなみに、サボ島を挟んだ目の前の海は、アイアンボトムサウンド。

数次に及んだ海戦で沈んだ軍艦や航空機、輸送船があまた沈んでいて

鉄の底の海峡と名付けられた海である。

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  向こうに見えるのがおそらくエスペランス岬
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  エスペランス岬の近くの日本軍が撤退した海岸で案内をしてくれた家族
 写真を撮っていいかと聞くと恥ずかしそうに並んでくれた。

このあと、ビル村戦争博物館、鬼怒川丸と訪ね歩く。

鬼怒川丸はアメリカ軍の空襲下、帰還を断念し積載した物資を届けるために

船ごと島に乗り上げた輸送船。

昔の写真では船体のかなりの部分が海面上に出ているが、

我々が行ったときは船橋とマストの一部しか見えなかった。

満ち潮だったとしても以前の写真とはかなり異なっており、

たぶん、船体の下の砂が歳月を経て波に流され、

船体そのものが以前より沈んでいるのであろう。

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  ビル村戦争博物館 日本軍の重砲
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  撃墜されたグラマン
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  同じく撃墜されたP38

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   日本軍の97式中戦車の砲塔 ガイドはこれが日本の戦車だと知らなかったらしい
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  ガタルカナルでよく見かけた陸生の貝あるいはカタツムリ
 大きいのは5cmくらいある。たぶん飢えた日本兵はこういうものを食べたのだろう

ここで、ガイドがサムタンクがあるから見に行くと言う。

some tanks 戦車が何台かあるということだろうと思って行ったら、

車の走れる道路から草に覆われた道をしばらく歩いて浅い谷のようなところに

入っていった。そこに破壊されたシャーマン戦車があった。

some tanks ではなく sheman tank だった。

この辺もピジン英語で発音が違う気がする。

それはどうでもいいのだが、

砲塔の側面を撃ち抜かれたシャーマンの傍らに説明書きがあり、

194322日にここで撃破されたと書いてある。

それを読んだとき疑問を感じた。

22日といえば日本軍が撤退を開始していたときである。

その時点でこれだけの戦闘能力を維持していた部隊があったのか?

で、帰国してから調べてみた。

ガダルカナルからの撤退を支援するため、昭和181月に矢野大隊770名が

あらたに上陸している。彼等は最前線で敵の侵攻を遅滞させるための戦闘を繰り広げ、

27日、最後の船でガダルカナルから撤退している。

撤退したとき770名の部隊は300名に減っていたらしい。

シャーマンの傍らにあった説明書きと、

同行した知人が帰国後調べてくれた自衛隊の戦史記録が一致する。

あのシャーマンは、矢野大隊が撤退を支援するための遅滞戦闘で撃破したシャーマンに

間違いない。

草蒸した浅い谷に静かに放置されているシャーマン。

70数年前、ここで阿鼻叫喚に包まれた戦闘があったのである。

この後、道路脇の店で昼食を買い、海を眺めながら食事を済ませ、

丸山道への入り口の慰霊碑、野戦重砲連隊の慰霊碑を巡り、ホテルに戻った。

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  破壊され放置されたシャーマン戦車
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  草蒸す浅い谷間に放置されているシャーマン 後部にも砲撃を受けた跡があった
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  丸山道の入り口に忘れられたようにあった慰霊碑
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  昼食を買った道沿いの店 こういう店は結構多いのだが、
 ガイドは比較的質のいい店に案内したのかもしれない。
 店の前に立っている男性が今回のガイド
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  こんな感じで売ってる
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  焼きバナナが2ドル ソーセージが10ドル チキンが30ドル
 タピオカはサービス これで42ソロモンドル
 ちなみにホニアラ市街の店で食べた昼食より美味しかった
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  野戦重砲連隊の慰霊碑 後ろにあるのは重砲の牽引車
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  同じく野戦重砲連隊の慰霊碑
 ガダルカナルは南半球 南十字星が見える

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