2016年07月

出雲

伯耆大山に登り、松江での短歌の大会に参加して最終日は出雲をさくっと歩いた。

何年か前、出雲神話のあとを訪ねて出雲を歩いたことがあるので、

今回はまだ行ったことのないところに立ち寄ってみた。

松江での大会が終わって宿泊は玉造温泉。出雲風土記にも出てくる温泉で好きな温泉だ。

翌朝、まずは八雲立つ風土記の丘公園へ。

ここには6世紀の岡田山古墳があり、「額田部臣」の銘文のある刀が出てきたことで有名。

以前にも来たことがあるのだが、ここの資料館には入ったことがなかったので行ってみた。

重要文化財の額田部臣の銘文の刀も見ることが出来る。

ちなみにフラッシュを使わなければ撮影OK。見返りの鹿の土偶も有名である。

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  玉造温泉
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   岡田山古墳
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   額田部臣の銘文の刀

次に行ったのが真名井神社。

古代出雲の中心だった意宇に残る古い神社で出雲風土記にも載っている。

近くの神魂神社に似ているが、もとは同時期に建てられたもので典型的な大社造りの

神社である。現代の真名井神社は江戸時代に再建されたものだが、古い形のまま

再建されているらしい。

出雲の神社は結構観光地化しているわけだが、

この真名井神社は観光地化していなくて静かで雰囲気のいい神社である。
ただ、観光地化していないだけに駐車スペースも狭くて場所もちょっと分かりにくい。
美しい神社である。
ちなみに出雲の神社では揖夜神社、神魂神社、佐太神社が好きだったのだが、
この真名井神社も好きな神社の仲間入りである。

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  真名井神社
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   真名井神社 大社造りの美しい神社

空港の方に向かって次に訪ねたのが西谷墳墓群。

2世紀末から3世紀というから弥生時代のもの。

古墳時代が始まる前の墳墓群で四隅突出型墳墓という独特な形状で有名である。

卑弥呼の時代より少し前か同時期、そのくらいになるのだろうか?

「日本の王家の谷」とも呼ばれているところ。
弥生時代のこの地域の首長の墳墓だが、出土品からは既にその時代から
出雲が北陸や他の地域と交易していたことを示している。

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   西谷墳墓群

出雲はこれで
3回目だが見るものはまだまだ沢山あった。

最後に出雲大社に行き遅い昼食に割り子蕎麦を食べ、お参りをして帰路に着いた。
出雲大社の境内には陸前高田の「奇跡の一本松」の枝から接ぎ木して命を繋いだ
松が育っていた。

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    出雲大社
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   陸前高田の奇跡の一本松の枝を接ぎ木して命を繋いだ松

新しいリアル

松江での現代歌人集会の春季大会。
会員ではないが一般参加も出来るので講演を聞きに行った。

「あたらしきリアル」というテーマ。

現代の短歌で「リアル」がどう変容しているか。

世代の差とか断絶とかいろいろ理由はあるのだろうが、

従来の「リアル」では説明の出来ない歌が増えてきているわけで、

その辺を考えてみようというもの。

大辻隆弘の基調講演に続き吉川宏志の講演。

近代短歌は時間的空間的に定点を据えて詠われてきたとか、

「リアルの三原則」、身体性・不在性・他者性という二人の話は分かりやすく、

内容の濃いいい講演だった。

確かに近代短歌は理路整然と詠われているところがあって、

それが「古いリアル」だったわけである。

で、「古いリアル」を確認したところで「新しいリアル」の話になるわけだが、

松村正直、大森静佳、森井マスミ、楠誓英の若い4人によるパネルディスカッションは

ちょっと話がとっちらかった感があったかな?
途中から松村正直がかなりディスカッションをリードして話したのだが、

このままでは話がまとまらないと思ったのだろうか?(^^;

ちなみに松村正直って、瞬発的な思考力がある。思考していることを言語化する能力にも

長けている。話を聞いていてそう思った。

そのどちらも自分にはないもので、ちょっと憎らしくなるような男ではある(^^;;

それはそれとして、ディスカッションでいろいろ出てきた話のなかには、

「それはリアルについての話か?」というものも結構あった。

リアルの問題というより、表現が個の内側に向かっているのではないかとか、

そういうのも結構あった気がする。

近代短歌は理路整然としている。

しかし、現実の人間はそんなに理路整然としているわけではなく、

むしろその理路整然が嘘っぽくなってしまうということはあるだろう。

近代短歌は静止画的で、それに対し動画的な歌が出てきているという話もなるほどと

思った。子供のときから写真ではなく動画を当たり前に見てきた人間にとっては

動画的なものの方がリアルであるのかもしれない。

松村正直の「中心がひとつの円ではなくふたつ以上の中心がある楕円」という話も

確かにその通りなのだろう。

人間は何かを話しているとき、そのことだけを考えているのではない。

仕事の打ち合わせをしながら、今夜どこに飲みに行こうかと考えるようなことは

当たり前にするのであって、人間は一度にひとつのことしかしていないわけではない。

人間のそういう部分を31文字にしたような新しい歌もあるわけで、

そう解釈すると「古いリアル」からは読みにくい歌も理解できるということも分かる。

しかし、そういう人間の同時並行的思考は別に現代人の特性ではない。

昔から人間はそうなのであって、

西行も定家も、桜を見あげながら、こうやって見上げているとこの頃ちょっと首のあたり

が痛いなとか考えたかもしれない。しかし、西行も定家もそういう詠い方はしていない。

短歌の歴史のなかで、人間の意識は円ではなく楕円であるということは排除されてきた。

それはなぜかなと思うとき、

いたって単純に、楕円って詩になるのかな? とは思うわけである。

桜を見上げている歌は人の心を動かすかもしれないが、

桜を見上げながら、そういえば最近首のあたりが痛いなと言われても、

あまり感動しない気はする。

リアルは楕円かもしれないが、リアルをそのまま持ってきても人の心は動かない、

そういう気はするわけである。

身もふたもないって話はあるわけで、
この生き辛い現代の、身もふたもないところから
生まれてきたものが新しいリアルの
一面としてありそうな気はするが、
内向き、自閉、虚無、絶望、そういういろいろなものが
あるのは分かるとして、
短歌が作者を反映するものである以上、

実は、短歌そのものに自閉的な傾向があらわれているのではないか?

話を聞いているうちにそんな気もしてきたわけである。

もし、そうだとして、自閉的な短歌は文学として生き残れるのだろうか?

そんなことも思うわけだが、もちろん、それはたぶん、新しいリアルの一面の話でしかない。
いずれにしろ、パネルディスッカッションが終わって質疑応答の時間になったとき、

「古いリアルは分かりました。で、新しいリアルはどうなったんですか?

と聞きたくなる感じではあった(^^;;;

新しいリアルというより古いリアルを確認するような感じになってしまったのだが、

それはそれで内容の濃いディスッカッションだった。

それくらい難しいテーマだったということだろう。

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    午前中に行った、ラフカディオ・ハーンが松江で住んだ家のハーンが使った机(レプリカ)。
 片方の目が見えなかったので、もう一方の目で近くから見るようにして原稿などを書くために
 普通より背の高い机になっている。

伯耆大山

7月の三連休、松江で短歌の関係の大会があるので行ってみることに。

ついでに百名山のひとつ伯耆大山に登る。

飛行機で出雲空港に着きレンタカーで大山へ。

三連休なのでどうかなと思っていたが案の定、登山口に近い駐車場は満杯。

仕方なく少し下ったところにある公営の駐車場に停めて登山口まで歩くのだが、

そうたいした距離ではなかった。

登山口から登り始めたのが11時20分で、

山登りのスタートの時間としてはかなり遅いわけだが他にも結構登山者がいる。

中高年登山者と、なぜか若い女性のグループが目に付いた。

山ガールという言い方もあるが、若い女性達に登山がブームなんだろうか?

そういうグループを適宜追い抜いてゆくのだが、暑い。

天気がいいのはよろしいのだが、ちと暑い。

暑さでバテる感じで小刻みに休憩しながら登る。

下から一合目、二合目と表示があり、今どの辺を登っているか目安を付けやすい山である。
登山道もよく整備されている。

六合目に避難小屋があり、頂上から降りてきた中学生の集団で混みあっていた。

さらに上からも降りてくる。

学校行事の登山なんだろうが、他の登山者は道を塞がれていささか迷惑である。

付いてきている教師も登山の素人なのだろう、他の登山者の迷惑にならないよう行動する

ようにと必ずしも生徒に注意していない。

学校行事で登るなら他の登山者の少ない平日にして欲しい。

彼等の喧騒をやり過ごすと周囲の木々が低くなってくる。

日差しが強くて暑い。八合目では低い木の木陰に体を押し込むようにして休憩した。

八合目までは割りと急登が続くのだが、少し登ると広やかな頂上台地に出て道も

平坦になる。7合目から8合目までがちょっと遠いなと思ったのだが、

急登の終わりが8合目ということなのだろうか、

平坦になってしばらく行くとすぐ9合目だった。

頂上まで続く草原状の台地に木道が続いていて、周囲には花が咲いている。

シモツケソウとか紫の尻尾みたいなクガイソウとか、ピンクの花はシコクフウロ?

気分のいい木道を歩いていくとそのまま頂上に出る。

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 八合目から上は広やか
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 クガイソウ
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 シコクフウロ?

ちなみに頂上と言っても大山の頂上ではなく弥山の頂上である。

ほんものの大山のピーク剣ヶ峰1729mはすぐそばなのだが、

登山道の崩壊で危険なために立ち入りが禁止され、

そこより20m低い弥山のピークがとりあえず「大山の頂上」ということになっている。

それはいいのだが、登ってきたときに頂上にワッと立っている人の群れが見えたのには、

いささかげんなりした(^^;

で、必ずいるのである。

頂上の標識のところで記念写真を撮ろうとしていつまでも場所を占領しているヤツラ。

はっきりいって中高年登山者にそういうのが多い(^^;;

そういう連中の脇から頂上に立ち、ちょっと写真を撮ってすぐに脇の方に降りる。

しばらく見ていると、雲が流れほんものの大山の頂上が雲のなかから姿を現した。

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 弥山のピークから伯耆大山

うん、なかなか気分がいい。登ってきた甲斐があった。

休憩してすたすたと下る。

暑くてふうふう言いながら登ってきた道だが、下りは早い。

たいして休憩もしないで六合目の避難小屋まで下り、

その先で行者谷の方の下山路に入る。

登ってきた登山道と比べるとめっきり人が減る。

急な道を降りていくと、元谷に出るが、ここで霧にまかれた。

ざれた谷の踏み跡がはっきりせず、霧で岩についているペイントも見えない。

人が踏んだらしい跡を辿っていくと、少し上に登って元谷の避難小屋を見つけた。

ここから登山道が続いているのかと思ったら、河原に降りてまた消えてしまう。

最初の谷に出たところに戻り、ざれた谷を下に行ってみると踏み跡があり、

ケルンやペイントも見えてきて無事に谷を渡り登山道に出た。

実際はたいした距離ではないのだが、濃い霧で視界を失うとちょっと危ないところでは

ある。そこから30分くらい歩いて霧のなかの大神山神社に出、

そこから少しくだると大山寺に出る。

もうすっかり人の少なくなった参道を歩いて駐車場に戻り、

今日の宿泊のさぎの湯温泉に向かった。さぎの湯温泉は足立美術館のすぐ隣である。

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  八合目、これは下山してきたとき、この時点で霧が出始めた
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  下山すると霧のなかに大神山神社
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  大山寺

時代の雰囲気


 時代の危機に声をあげよとさはされど茂吉のようになりたくはなし


先月の結社誌に出した歌。
この歌を歌会に出したとき、
「齋藤茂吉のように批判されたくないので、政治の話には口出ししたくないと思っている」
というふうに読む人がいて、ま、読者それぞれに読んでもらって構わないのだが、
作者としてはもう少し深いところを読み取って欲しいなという気はしたのである(^^
齋藤茂吉は戦争協力ということで、戦後だいぶ批判された人である。
本人にしてみれば、「あの時代はみんなそうだっただろう」という気持ちがたぶんあったと
思うわけだが、彼が時代の雰囲気に呑まれていたのも事実だろう。
で、戦後の歌人はそういうことを知っているので同じ過ちを繰り返さない、
短歌の世界ではそう思っている人が多いのではなかろうか。
しかし、そうではない気がする。
参議院選挙が終わった。
与党の圧勝、改憲に必要な三分の二を確保。
新聞にはそういう見出しが出ている。
昨年、安保法制に反対して若者が動き出し、多くの学者や文化人も加わった。
安保法制に反対しているのが国民の声だと言っていた。
彼等の行動が政治に新しい大きなうねりをもたらすだろうと言っていた。
それで、どうして選挙でこういう結果が出るのか?
短歌の世界でも動きがあった。
時代の危機にどう向き合うか、歌人達が集まりシンポジウムも開かれた。
私もそういうシンポジウムのひとつに参加したが、
そこで感じた懸念については、以前このブログにも書いた。
昨年の安保法制に反対する活動にこの国のサイレントマジョリティーが同意しなかったのは、
反対する人達の活動に危うさを感じたからではないのか?
主張に現実味がなかったし、
その手法は民主主義を口にしていたがファシストの手法と同じものだった。
昨年の反安保法制の活動はイメージ戦略に頼ったものだったわけだが、
そのなかで陶酔していたのではないのか?
あれが陶酔でなく本当に中身のあるものだったのなら、
今回の選挙はもう少し違う結果になっていたのではないのか?
短歌の世界での話も同じである。
戦後の歌人は茂吉の失敗を知識として知っているわけだが、
陶酔のなかではそんな知識は消えてしまう。
昨年来、短歌の世界にあった幾つかの動きには、
時代の雰囲気に呑まれたものなどなかったと、
本当に言い切れるだろうか?
右か左かは茂吉の失敗の本質には関係ない。
時代の雰囲気に呑まれ、茂吉と同じ失敗をしようとしていなかったか?
我々歌詠みもその辺をゆっくり考えてみて損はない気がする。

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  先週の金曜、仕事で平塚市役所へ。その帰り、平塚の七夕。
 仙台の七夕よりも手作り感がある。

バーベキュー

首を突っ込んでいるNPOで毎年この時期に開いている懇親バーベキュー。

会場は八景島シーパラの向かいの海の公園。

ここのバーヘキュー場、予約制でひと月前からネットで予約を取るのだが、

受け付け開始と同時に予約で一杯になるような感じで、

なかなか取れないのである。

幸い、天気が良く、買い出しをして11時に会場着。

タープを張り、火をおこして、まずはビール。

昔と違って火を起こすのもバーナーがあったりして随分楽である。

新聞紙とマッチで火を起こしていた時代なんて若いやつら知らんのだろうな(^^;

肉を食い、差し入れのシャンパンやワイン、日本酒を飲んでだんだんいい気分になる。

ひとつ残念だったのはトウモロコシ。

焼きトウモロコシにしたのだが、

焼き過ぎで固くなってしまっていた。

焼きトウモロコシは皮がついたままでその皮が焦げるまで焼く。

そうすると皮のなかで蒸し焼きみたいな感じになりジューシーに出来上がる。

最後に皮を剥いてテキトーに醤油をたらしてもう一度焼けばバッチリである。

皮着いたままで焼けと言ったのだが、

たぶん、そこまで焼かないうちに皮を剥いて焼いて、しかも焼き過ぎたのだろう。

水分がなくなって固い焼きトウモロコシになってしまった(^^;;

しかし、今年はメンバーのひとりが趣味でやっている燻製の方はバッチリ。

以前は、チーズの燻製を作ったら、ただ溶けてしまっただけのチーズが出てきたりしたが、
今年はチーズの燻製も鳥のささみの燻製も美味しかった。

今度、手作りのベーコンを作って欲しいな。

海の公園は潮干狩りしている人が大勢いて、バーベキュー場の上はトンビが沢山

飛び回っている。鎌倉あたりの海でもそうだが、トンビが人間の食べ物を狙っていて、

昔は、空に肉片を投げ上げてトンビが急降下してきてそれを掴むのを見たりしたものだが、

今はそういうことをやると顰蹙買うし、それ以前に沢山のトンビに狙われて危険である。

今年は新しい会員に沖縄出身の人がいて、いろいろ沖縄の話が聞けて面白かった。

翁長知事のことも、彼が那覇市長の頃から知っている人は本土の人とは違う見方をしてい

るようで、本土のマスコミが伝える情報というのは、かなり偏っているものなのだなという

気がした。マスコミの言うことを自分なりに検証しないで鵜呑みにしていると、

戦前と同じ失敗をしそうで怖い。

バーベキューとは関係ないのだが、今更のようにそんなことを思った。

いろいろ話も出来、たらふく肉を食い酒を飲んで楽しい一日だった。

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   海の公園

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