2016年06月

イギリスEU離脱

当のイギリス人が一番驚いているんじゃなかろうか?(^^;

ぎりぎりまで競っても結局は残留するだろう、それが大方の予想だったようだが、

そういう予想を見事に裏切ってのEU離脱。

投票日当日のイギリス東南部の大雨で投票に行けなかった人も結構いたみたいで、

あの大雨が降らなかったらイギリスの歴史は変わっていたのかもしれない。

離脱が決まったとたん、離脱派が宣伝していた拠出金の負担額がウソだったことが

明らかになったり、再投票の請願にかなりの署名が集まったり、

イギリス国内はかなり混乱しているらしい。

今後どういう影響が出るのかは複雑過ぎてよく分からん。

EUとの間の貿易に関税がかかるようになってしまうので不利だという話があり、

ポンド安がそれを相殺するだろうという話もある。

離脱するのは2年先だからすぐに影響が出るわけではないという話もある。

しかし、企業の設備投資は短期的な計画でおこなわれるのではない。

2年後には関税がかかるかもしれないとなると、

その地域への投資に企業は当然慎重になる。

既に進出した工場の設備更新をどうするのか、企業は判断しなければならないのである。

離脱するなら離脱するでさっさと決めることを決めていかないと、

決まらないことによる悪影響が広がるのではないか。

たぶん、日本の参議院選挙にも影響するんだろう。

現にイギリスのEU離脱が決定したあとのスペインの選挙では、

それまで優勢を伝えられていたEU離脱派が減速した。

非常事態を目の当たりにした有権者の反応だろう。

今回のイギリスの国民投票を見ていて思った。

民主主義はかならずしもベストの選択をするわけではない。

自由と民主主義を愛するのなら、むしろそのことを知っておくべきなのだろう。

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   鎌倉 長谷寺

夏至

夏至である。一年で昼が最も長い日。

これから本格的な夏になる。

夏至を詠んだ短歌を拾ってみた。


夏至のひかり胸にながれて青年のたとふれば錫のごとき独身

                            /塚本邦雄

昼顔の群生踏みてゆくときを人世しづけく夏至いたりたり

                            /雨宮雅子

なまぬるき論よ恥じつつくれないの切手を嘗める夏至の日の舌

                            /佐々木幸綱


「夏至」という言葉が短歌のなかでどういうふうに使われているか、

ちょっと興味があって拾ってみたのだが、

塚本邦雄の歌では、青年の肉体とこれから来る夏の盛りを示す「夏至」が

響き合っているような気がして、意識的に使われているのだろうが、

雨宮雅子の歌では、季節の区切りとしてのシンプルな使い方のようである。

佐々木幸綱の歌はもう少し意味を持って使われているようで、

厳しくなっていく暑さ、それが醸し出すものをうまく使っている気がする。
歌を作るときに、その言葉の持つ象徴性なりそういうものは生かしたいと思うわけだが、
ひとつひとつの言葉にあまり意味を持たせると失敗する気がして、
その辺の兼ね合いは結構難しい気がする。
そういえば、「夏至」といえばこの歌がある。

  一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ

                           /永田和宏

愛する人との時間が一日一日確実に減ってゆく。
その確実に減ってゆく時間の延長にある今年の夏至。
夏至という季節の区切りが、止めることのできない一日一日をむしろ感じさせる。
夏至という言葉の使い方を考えたとき、あらためていい歌だと思った。

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   フィールドアーチェリー 的紙の張り替え

全国大会

短歌の結社誌が届いた。

ぱらぱらと斜めに読んで一番後ろを見たら、全国大会の案内が載っていた。

結社では年に一度、全国大会を開く。

大抵、一般公開のプログラムだけ参加している。

以前、全日程で参加して歌会にも出たのだが、

いかんせん全国大会の歌会は参加者が多くて時間がないので言いたいこともあまり言えず、

おまけに選者の人達の総評もなにやら随分やさしい総評だったので、つまらなくなって、
それ以来、一般公開のプログラムだけ参加することにした。

しかし、あれは仕方ないんだろうな...。

結社で中心的役割を担っている人達は、結社の運営ということも考えなければならない

わけで、会員にとって負担にならないくらいの会費で運営していこうと思えば、

規模の利益を追求しなければならなくなるはずである。

ある程度の会員数は必要ということである。

で、会員が増えて繁昌するのは結構なのだが、

1000人を越える会員がいれば温度差も当然あるわけで、

ストイックに短歌に取り組んでいる人もいれば、

歌会のあとの宴会の方が楽しいのかなと思う人もいるし(^^;

短歌教室の延長のような気分の人もいるだろう。

さらに年に一度の全国大会となれば、普段あまり歌会に出られない人も出てくるわけで、

そういう温度差のある人達をまとめて歌会をやるのである。

ある程度、「お客様大事」も仕方ないのではなかろうか(^^;;

ま、そんなことで一般公開のプログラムしかここしばらく出ていないのだが、

今年はその一般公開のプログラムが日程の関係か、少し時間が短いような気がする。

う~ん、京都あたりまでなら時間短くても、京都散策のついでに立ち寄ってもいいんだが、

今回は岡山、京都からさらに新幹線で1時間くらいかかるんだよな...。

やめておきますか...。

昨年の全国大会はアメリカに行っていて参加しなかった。

これで2年続けて不参加になる。

どうしようもない不良会員ではある(^^;;;

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  ほたるぶくろ

佐野朋子のばか

佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子おらず

                           /小池光『日々の思い出』


小池光の有名な歌。

作者は高校の教師だったので、この歌が世に出たとき、

「教育者がなにごとか」という歌の評価とは関係ない批判もあったらしい。
岡井隆はこの歌を、
「教師と生徒の関係が著しく感情を剥き出しにするレヴェルへと変わっていった時代を
におわせる」と評している。
さすが昭和の人は真面目である(^^;
別にそう深く受け取らなくてもいい歌である気がする。
普通の人が口にする「〇〇のバカ、ころしたる」というのは、
本当に殺意があるわけではなく、頭に来たときの表現のひとつであろう。
教師が日々の仕事のなかで抱いているストレスとか怒りとか憤懣とか、
そういうものをこういうユーモアで包んで表現しているのであり、
少なくとも佐野朋子は実在の人物ではあるまい。
もっとも多少の実感は籠っているのかもしれず、モデルはいるのかもしれんが(^^;;
短歌の叙情性とは少し外れるようだが、
人間の心の機微をうまく表現している気がする。
小池光はこういうユーモアのある歌を結構詠む。
歌が作れないとき、ユーモア系に流れるというのはよくあることで、
あるいは小池光もそうやって苦しみながら作歌しているのだろうか。
ちなみにこの歌の後日談みたいな歌がある。

  佐野朋子ふたり子中学生といふ風のうはさにひととき怯ゆ

                          /『時のめぐりに』

『日々の思い出』が1988年、『時のめぐりに』が2004年なので、
16年ののち、佐野朋子はふたりの中学生の母親になったらしい。
風の噂にそれを聞いてひととき怯えたという。
これもいかにも教師らしくて面白い(^^;;;
ま、教師のなかには相手が子供だと思って安易に接する向きもいるわけで、
その相手が大人になったとき、
吾が師の恩を仰いで尊く思ってくれるとは限らないわけである(^^;
「あのとき、まずいこと言ったかな~」とか、
それくらいのことを思ったとしたら、
小池光はむしろ良心的な教師だったのかもしれん(^^;;
ま、そういう経験が実際にあったかどうかは別として、
教育の現場で働く生の人間の姿がユーモアとともに浮かんできて面白い歌である。
ちなみに私が作った歌にこういう歌がある。

  佐野さんも芭蕉も入りし鯖湖湯は朝六時から開いています

この「佐野さん」、

実は、歌を作っているときに、小池光の「佐野朋子のばか」がふと浮かんで借用した。
別に佐野朋子がふてくされて鯖湖湯に入っているということではない。
名前を借用しただけの話で、
読者はそれぞれの「佐野さん」を想像して頂ければいいのである。

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   福島 飯坂温泉の鯖湖湯 

おたあジュリア

神津島のありま展望台にあったジュリアの十字架。

その案内に書かれていた、おたあジュリアが気になって、帰ってから調べてみた。

案内に書かれていた通り、おたあジュリアは、秀吉の朝鮮出兵の際、

親を亡くして泣いていたところを小西行長に拾われたらしい。

行長はその子を日本に連れて帰り、おたあと名づけ娘として育てた。

行長はキリシタンで、おたあもキリスト教に改宗し、ジュリアという洗礼名を受ける。

関ケ原の戦いで小西家が滅ぶと、どういう経緯かは知らないが徳川家康に見いだされ、

駿府で侍女として暮らす。1612年、キリスト教の禁教令がだされ、

おたあも棄教を迫られるが拒み、そのため、神津島に流され、そこで死んだという。

で、いろいろな話があって、

家康がおたあを側室にしようとしたがおたあが了承しなかったので怒った家康に

島流しにされたとか、最初は大島、次に新島、最後に神津島と三度も島を替えて

流されたのは、家康が側室になれば許してやると持ち掛けたのにおたあがそれを

受け入れなかったので、さらに遠くの島に追いやられたとか。

しかし、どうも後世の脚色が入っているようで、どこまでが本当かは分からない。

年とった権力者が美貌の若い女性に色狂いする話というのは、

読者を喜ばせる話を作る向きがよくやる手法であって、鵜呑みにはしにくい。

そもそも、おたあが神津島に流されたとき、家康は70歳である。

当時の70歳...、ま、元気なやつは元気だったかもしれんが...。

家康の思い通りにならなかったからさらに遠くに流されたというのも、

大島に30日いて新島に移り、15日後に神津島に渡ったらしいのだが、

遠島での島替えは、流された島でさらに罪を犯した者が、さらに遠くの島に流されると

いうものであって、30日とか15日という滞在日数からはそういう島替えは考えにくい。

当時は帆船である。次の島に移る間、単に風待ちしていただけの話ではないのか?

もうひとつ、おたあが神津島で死んだという話も、戦後になって、

神津島の郷土史家が流人墓地にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると言い出して

から広まったもので、それがそののちの観光振興とつながり、

ジュリア祭りというお祭りにまでなってしまったのだが、

根拠は明確ではない。

流人墓地の供養塔の案内には「韓国風の供養塔」と書かれていて、

知らないで読むと、ああそうなのかと思うのだが、

あらためて調べてみると、日本の寺にフツーにある二重方塔に似ている。

根拠のない話がいつのまにか一人歩きするというのはたまにあるわけで、

おたあジュリアの伝承も、そのパターンの可能性はある。
ちなみに、その後、イエズス会のフランシスコ・パチェコ神父が1622年に出した日本通信が
発見され、そこに、おたあジュリアという女性が神津島から大阪に移り、
その後、長崎に移ったという話が
載っている。
江戸時代、もっとも重罪の者が送られたという八丈島でも3割から4割の者は赦免されて
戻ったという。家康はおたあが流されて4年後の1616年に74歳で死んでいて、
あるいはこのとき、おたあは赦免されて島を出たのかもしれない。
その後のおたあがどうなったのかは記録にない。
あるいは長崎に移り、そのままそこで暮らしたのかもしれない。
小西行長の娘で対馬の宗家に嫁いだ妙は、関ケ原ののち離縁され長崎で暮らしていた。
彼女はおたあジュリアとは姉妹のような関係ではなかったのだろうか?
妙は1605年に病気で死んでいるが、長崎には縁者がいたかもしれない。
おたあジュリアと同じように朝鮮で拾われ小西行長に育てられた権ヴィセンテは、
フランシスコ・パチェコ神父が1622年に日本通信を書いた頃は島原にいたはずだし、
妙の息子の小西マンショはその頃、キリスト教を学ぶためにヨーロッパに渡っている。
あるいは彼女も、キリスト教の弾圧が厳しくなるなかで信仰を守るために、
ルソンかマカオ、東南アジアのどこかに渡ったかもしれぬ。
おたあジュリアがその後どこで生き、どこで死んだのか、それを追いかけるのは
あまり意味がないかもしれない。
激しい戦乱の中で孤児となり、異国に連れていかれ、
しかし、そこで家族のように育てられ信仰に目覚めた。
そしてさらに過酷な時代のなかでおのれの信仰を守って生きた。
そういう女性がいたということである。

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   神津島のジュリアの十字架

神津島

天上山から下山し、翌日は帰りの船に乗るまでテキトーに島を散策する。

宿のおかみさんに港まで送ってもらい、

そのあと、途中で見えた水配り像に行ってみる。

なんでも神津島の神話なんだそうで、

伊豆諸島の神々がこの島に集まり、命の源である水の分配について話し合ったんだそうな。

で、翌日、先着順に水を配ろうということになって、

一番先に来たのが御蔵島の神。

だから伊豆諸島のなかでも御蔵島は水が豊富なんだとか。

次に来たのが新島の神、八丈島の神、三宅島の神、大島の神。

で、利島の神は寝坊してしまって遅れてしまい、着いたときには水が少ししか残って

おらず、怒った利島の神が残った水のなかに入って暴れまわって水が飛び散ったので、

神津島はあちこちから水が出るようになり、

利島は水が少なくて苦労することになったという話。

ちなみにこの話には式根島が出てこない。

式根島は水がなくて、明治になるまで無人の島だった。

人が住むようになったのは、明治になって井戸が掘られ水を確保できるようになってから。

伊豆七島に式根島が入っていないのも、式根島が長く無人島だったかららしい。

で、水配り像、利島の神が一番前で昼寝をしていてこれがなにやらユーモラスである。

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  水配り像

せっかくなので前浜を歩き、向こうの高台にあるありま展望台まで行ってみる。

海岸沿いに歩き、途中から上に登る。前浜の集落や天上山が一望できる眺めの良い道だ。

一時間かからないくらいで、ありま展望台。

ここには、ジュリアの十字架という白い大きな十字架が立っている。

案内を読むと、秀吉の朝鮮出兵の折り、親を失って泣いていた幼い女の子を小西行長が

日本に連れて帰り育てたらしい。小西行長はキリシタンだったが、

おたあと名付けられたその子もキリシタンになり、ジュリアという洗礼名を受けた。

関ヶ原の戦いで小西が滅び、そのあとは徳川家康のもとに召し出され駿府の大奥で働いて

いたらしいが、その後、禁教令で改宗を迫られ、それに応じなかったため神津島に流され、

この島で死んだという。

ま、そんなようなことが書かれていた。

朝鮮半島から日本に連れてこられ、さらに南の神津島へ。

時代に翻弄されたというのか、波乱に満ちたというのか、ちょっと凄い人生ではある。

おたあジュリア、どんな女性だったのだろう。

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  ジュリアの十字架
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  ありま展望台からの眺め

ありま展望台は、海原と神津島の港、集落、天上山や神戸山などの山なみが望める景色の良い展望台である。海の向こうには伊豆半島も見える。青い海には漁船がゆく白い筋が

幾つか見える。この辺の海はさぞ魚が釣れるのだろう。民宿のおかみさんは、

桟橋からでもいろいろな魚が釣れると言っていた。

展望台からのんびり歩いて集落に戻りテキトーに土産を買い、

港のよっちゃーれセンターで昼飯に美味しい魚の定食を食べ、昼過ぎの船で島を離れた。

神津島、面白い島だった。今度は釣りに来てもいいかもしれない。

朝のうちは少し雨が降っていたのだが、天気も回復し、

離れてゆく神津島の左側に三宅島が見えた。

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   帰りのあぜりあ丸
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   神津島 左に少し見えるのが三宅島

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