2015年07月

歌会のあと

先日の歌会のあと、軽く飲みながらわいわい話をしていた、というか、

疲れていたので話を聞きながら半分寝ていたのだが、

ふと目を覚ましたとき、隅に座っている人が目に入り、話しかけた。

「○○さんの今日の歌、上句は平凡にきて下句で飛ぼうとして飛びそこなってますよね」

相変わらずズケズケとものを言うやつではある(^^;

そのあと、それをネタに皆でまたわいわい話をしたのだが、

回りの人達が元気で、結局、言いたいことを言わずに終わってしまった。

実は当日、歌会が終わって雑談をしていた時、その人が、

「いつ歌を辞めるかわからない」と言っていたのが聞こえ、

ちょっと気になっていたのである。

確か以前にもそんなことを言っていた...。

歌を辞める辞めないは自分で決めることであり、どうでもいいのだが、

気になったのは、以前、話していたとき、

「評価されないから・・・」というようなことを言っていたこと。

結社のなかで自分の歌が評価されない、ということだと思うが、

どうなんだろ...。

そういうふうに思う人って結構いるのかもしれなくて、珍しい話ではないのかも

しれないが、他人の評価などどうでもいいことではないのか?

短歌を志したのは、評価して欲しかったからではあるまい。

悲しみとか苦しみとか、

なにかしら吐き出さなければ救われない、

そういう思いがあったとき人は歌を詠むようになると思うわけである。

苦しみを表現として吐き出したとき、

人はその苦しみをあらためて受け入れることが出来るようになるのであり、

人はそうやって救われるのであろう。

表現の原点はそこにある気がする。

そうやって吐き出したものを結社の選者が評価してくれようがくれまいが、

それはどうでもいいことである。

歌を辞めるときというのは、

詠い終ったとき、

あるいは、

自分の歌に我慢ならなくなったとき、

そういうときだと思うのである。

本当はそういう話をしたかったのだが、

疲れてもいたし回りの人も元気でわいわい話をしていて、肝心なことは話さないで

終わってしまった。

ま、そういうことってよくあることではある(^^;;

IMG_1579
  白いさるすべり

歌会

ひさしぶりに湘南での歌会。

気になった歌というか、気になったことについて。

例によって発表前なのでここには出せないが、

殺戮、破壊、戦争にほかになにがあるのか言ってごらん、

そんなような歌意の歌。

歌会では、言いたいことは分かるが36文字の短歌としてはどうなのか?

歌になっているのか?

そういう意見が大勢で私もそう思った一人。

安保法案どうのこうので喧しい時期なので、そういうものを背景にした歌なのだろうが、

社会詠だろうがなんだろうが、

まず歌としていい歌でなければならないと思うわけで、

言いたいことをそのまま言うだけでは、詩としての昇華がないと言わざるをえないし、

自分の主義信条をことさら言い立てるのが社会詠ではないとも思うわけである。

社会の中の出来事になにがしかの思いがあり、

それを詩として昇華して表現したものが読者の心に響き、

それまで気付かなかったことへの気付きにつながるようなことがあるならば、

それはいい社会詠なのではないかと思う。

ただ、私が歌会でなんとなく引っかかったのは、

そういう歌の内容や質の話とは別に、

作者の絶対な自信である。

歌を読む限り、この作者は自分の正義を絶対なものと信じている。

戦争反対、反安保法案、

そこにいかなる疑念も持っていない。

戦争反対も反安保法案も正しいのに決まっている、信じて当然、という話はなしである。

かつて、軍国主義者もそういうふうにおのれの正義を絶対なものと信じていた。
常に健全な疑念を持つということは人の営みとして当然なもので、
そういう姿勢の問題を言っている。
この作者はそういう姿勢を持っているのか?
そういう素朴な疑問を感じたのである。
たとえ言っていることが正しいとしても、
一首の背後に浮かび上がる作者の姿のなかに、
自分の正義を絶対なものと信じている危うさを感じさせてしまう社会詠は、
いい社会詠ではありえない気がする。

 IMG_1578
  藤沢市民会館のオブジェ 母子像?

バーベキュー

首を突っ込んでいるNPOで年に一度開いているバーベキュー。

金沢の海の公園のバーベキュー場でこの時期やるのだが、

砂浜の向こうに八景島シーパラダイスが見えるこのバーベキュー場、

かなり人気があって予約を取るのが結構大変なのだ。

使いたい日の一か月前の午前10時からインターネットで予約するのだが、
10時になって2秒くらいで予約が埋まってしまう。
会員総出で、時計を見ながら10時になった瞬間、予約サイトに入り場所を選択し、
予約取りをしても、あっというまに埋まってしまい、なかなか取れないわけである。
毎年、今年は予約が取れるかどうかという感じでやるのだが、
今年の場合は最初取れなかったのだが、そのあとすぐにキャンセルが出て、
運よくそれを拾ってなんとか予約の関門クリア。
で、まあ、それはそれでいいのだが、
ひとつだけ注文つけるなら、
もっと涼しい時にしようよ(^^;
7月の暑い盛りのバーベキューって、ともかく暑い。
年ごとに地球温暖化を実感できるような、そんな暑さである(^^;;
そのじりじりとするような暑さの下で、
肉を焼いたり、毎年、千葉の仲間が差し入れで送ってくれるトウモロコシを焼いたり、
燻製を作ったり、冷たいビールや差し入れの日本酒やシャンパンを飲んだり。
昼からいろいろ食べて飲んで話をして目一杯楽しんだ。
ときどき真上に鳶が飛んできて、なにか食べられるものはないかと様子を窺っている。
昔は、湘南の海辺とかでバーベキューをしているとき、飛んできた鳶に小さな肉片とか
投げ上げてやり、
鮮やかに空中でキャッチするのを見たりしたものだが、
今は、鳶に餌をやらないでくださいと注意書きが出ているので、そういうことはしない。
鎌倉あたりでは、人に慣れた鳶が砂浜でお弁当を食べている人のところに急降下してきて、
食べ物をさらってゆくようなことがあり、危険だといわれるようになって久しい。

昨年だったか一昨年だったか、途中から夕立が降ったのだが、
今年は最後まで天気が良く、一日楽しんで、
夕方、片づけをして横浜に戻り、居酒屋でさらに打ち上げ。
なにやら眠くなってしまい最後は何を話したのかもよく覚えていないが、
いずれにしろ楽しい一日であった(^^

 IMG_1574
   燻製の鶏を焼いて  これがなかなか美味しかった
IMG_1576
  バーベキュー場の向こうは八景島シーパラダイス

新国立競技場とインパール

先日、いつものように雑談をしながらアーチェリーのコースを回っていたとき、

新国立競技場の話になり、

何気なく「まるでインパールと同じだな」と言ったら、

なんと、一緒に回っていた常連達がインパールを知らないという。

失敗の構造としてのインパールと今回の新国立競技場をめぐるドタバタがよく似ている

と思ったのだが、常連達のインパールを知らないという反応に、

「うそっ!? まじっ!? 日本人のくせにインパール知らないの!!??」と

驚いたわけである(^^;

で、仕方ないので、インパールを知らない常連仲間達のために、

ここでとりあえずインパールのおさらい(^^;;

太平洋戦争で日本軍はビルマ(現ミャンマー)を占領したが、

これは別に子供の陣取り合戦のように占領地を増やしたかったからではない。

中国との戦争を終わらせることが出来れば、

中国大陸に展開している100万以上の陸軍を他の戦線に移動させることが出来るわけで、

そのためには連合国から中国への補給ルートである援蒋ルートの遮断が重要だった。

ビルマから雲南を経由して軍需物資を中国に輸送するのが援蒋ルート。

日本軍はこれを遮断するためにビルマを占領した。

その後、ビルマを通らずインドのアッサムから中国へ空輸による援蒋ルートが作られ、

陸路によるルートの建設も進んだ。そのアッサムの拠点がインパールで、

これを遮断しようとしたのがインパール作戦。

しかし、補給に問題があり、机上演習でも作戦成功の可能性がないことははっきりしていた。

参謀達も師団長達もみな作戦に反対していたが、司令官の牟田口廉也は作戦実施に

こだわった。彼は盧溝橋事件のときの連隊長で、自分の手で始まった中国との戦争を

自分の手で終わらせたいという気持ちがあったらしい。

また南方軍司令部も、膠着した戦況をなんとかしなければならないという気持ちで

いたらしく、そういう「空気」が、やがて合理的な思考を排除していった。

そして南方軍の寺内寿一とビルマ方面軍司令官の河辺正三がゴーサインを出し、

昭和19年3月、インパール作戦が始まる。

ビルマからインドに侵攻した日本軍は要衝のコヒマを占領し、インパールを包囲するが、

地上を包囲されても空から補給できるイギリス軍に対し、

補給のない日本軍は弾も食糧も尽きて敗れる。

兵士達は次々と餓死し、日本軍の退却路は白骨街道と呼ばれた。

この作戦の最中の6月、牟田口廉也とビルマ方面軍の河辺正三はふたりで会議をしている。

戦後、このとき二人は、心の中では作戦が既に失敗し、中止した方がよいと思っていたが、

最初に言い出すと責任を負わせられると思い、相手が察して欲しいと思いながら

会議をしていたということを話している。
つまり、相手か察して作戦を中止しようと言ってくれるのを二人して待っていた。
この愚かな二人の将軍のために数万人の日本兵が死んだ。
インパール作戦の失敗はある意味、日本的な組織がもたらした失敗だった。
補給の問題から作戦成功の可能性がないことがはっきりしていたにも拘わらず、
主戦論の「空気」のなかで合理的な思考は排除され、作戦は実行された。
作戦の失敗が明らかになったときも、牟田口と河辺は、自分達の体面の方を重視し、
責任を回避しようとした。
今回の新国立競技場の問題。
膨れ上がった厖大な建設費とその後生じるであろう大きな赤字。
それにも拘わらずゴーサインが出た。
健全な思考はどこにいったのか?
責任の所在はどこにあるのか?
オリンピックという「空気」のなかで、合理的な思考も責任感も隅に追いやられたのか?
幸い、急転直下、計画は白紙に戻された。
合理的な思考が「空気」に勝ったというより、
安保法案に伴う支持率低下の挽回策としてうまく使われたということかもしれないが、
ま、結果良ければそれで良しである。
それにしても、建築家の安藤忠雄の記者会見は見事なダメ押しだった。
確かに審査が終わってからここ数年の建築資材の高騰は彼の責任ではないが、

そうだとしても、どうすればあれだけ無責任な評論家のようにものが言えるのか不思議だ。

あげくの果てに、「ゼネコンは儲けは度外視してやって欲しい」とはどういうことだ?

体力のあるゼネコンはまだいい、儲けがなければ下請けを叩くだろう。

体力のない下請けは赤字になっても倒れるまでお国のために働けと?

そういえば牟田口も似たようなことを言った。

「皇軍の兵士たるもの、弾が尽きても大和魂がある」。

安藤忠雄の記者会見を聞きながら牟田口廉也がなんとなく重なったのである。

 アオスズメダイ
   先日行った下田の友人から貰った写真 アオスズメダイ
   下田の海にはこういう魚がいるらしい

大島 三原山2

三原山トレッキングを終えて大島温泉ホテルでのんびりとする。

ここの露天風呂は三原山の眺めが良くて気持ちいい。

30年前、三原山が大噴火したとき、湘南の海岸からも噴火の火が見えた。

伊豆の島々はその南の小笠原からつながる火山の列島である。

ここ数百年の間だけでも大島、三宅島、鳥島、青ヶ島、明神礁、西ノ島などが

噴火している。

最近は箱根が噴火しているが、やはりこの火山の列なりの延長なのだろう。

その先には富士山があるわけで、

平安時代の貴族の日記に、

「近頃、富士の山から煙が出なくなったという。これは奇異なことである」

みたいな記述があったりする。

つまり、平安時代の始めあたりまで、富士は常に噴煙をあげていたのである。

ま、自分が生きている間に富士山の噴火にお目にかかりたくはないなと思う。

のんびり温泉に浸かり、美味い夕飯を食べ、

皆疲れていたのだろう結構速く寝てしまった。

翌日、朝風呂に入り、昨日と同じ岡田港から熱海に戻った。

154 編集
  伊豆諸島と小笠原の車は品川ナンバー。最初、港に着いたとき
  品川ナンバーの車を見てフェリーで来たのかと思ったが、地元の車だった。
IMG_1549
  岡田港 向こうに富士が見える
IMG_1551
  高速船の窓から伊豆の天城山のあたり

今日は熱海から電車で下田にゆき、友人のリゾートマンションに泊めてもらう。

伊豆急の車窓から見ていると、富士の笠雲のような雲が大島をすっぽり包んでいる。

遥か南の台風から吹いてくる風が島にぶつかり流線形の雲が出来ているのだろう。

そういえば今朝の大島はガスに包まれていて全く眺望はなかった。

時間的に早かったので下田の駅のすぐそばの寝姿山にロープウェイであがって

ぶらついたりして時間をつぶし、そのあとは今日の夕飯と酒とつまみを仕入れる。

下田に来るときはいつも友人のリゾートマンションで温泉&酒三昧を楽しんでいる。

持つべきはリゾートマンションを持つ友である(^^;

IMG_1563
  寝姿山から下田湾
IMG_1570
  大砲もあります

翌日の午前中は下田の海でシーカヤック。

台風からの風で沖の岩礁には大きな白波がたっていたが、湾のなかは波も穏やかで、

小さな砂浜にシーカヤックで渡ったりして楽しみ、昼過ぎの踊り子号で横浜に戻った。

それにしても今回のように、海原の向こう、洋上の山をのぼるというのもなかなか面白い。

大島からの帰りの船の中で伊豆諸島の案内のビデオが流れていて、

そのなかに神津島の天上山の案内があり、

標高は572mだが海の真っ只中のちょっとアルプス的な雰囲気もある山のようで、

早速、次の目標はそこに決めたのだった(^^;;

 P7140023
  下田の海はすでに真夏

大島 三原山

伊豆大島に行ってきた。

今年の2月、伊豆山稜線を歩いたとき、

達磨山の頂上から東の方向、伊豆半島の山並みの向こうに白い大きな山が見えた。

丁度、雪を抱いた富士山の頂上が手前の山越しに顔を出しているような感じで。

「あれはどこの山だ? あの方向にあんな雪山あるか?」

一緒に登っていた仲間とそういう話になったのだが、

方向を考えると、それは大島の三原山だった。

前日に降った雪で、歩いていた伊豆山稜線も雪が積もっていたのだが、

大島の三原山も雪を被り、その白い山容がまるで富士山の山頂部分のような感じで、

山越しに見えていたのだった。

で、その山行の帰り、次は大島の三原山に行ってみようという話になり、

今回の大島行きとなったわけである。

電車で熱海に集合、熱海港から大島へ渡る。

ジェット船とかいって水中翼船のような船で、時速80kで航行できるらしく、

大島には40分ぐらいで渡ってしまう。

着いたのは岡田港、バスの接続もよく、港から三原山山頂口行きのバスに乗る。

IMG_1508
  熱海からのジェット船
IMG_1510
  40分くらいで大島の岡田港に着く

途中、中腹は椿の森が広がっていて、花の時期はさぞかし綺麗であろう。

30分くらいで、山頂口に着くが、上の方は結構ガスっている。

駐車場にはほんの数台の車が停まっているだけで、なにやら寂しい風景。

店が数件あるが閉まっているところもあって、昼飯が食えないかと心配したが、

少し行った先の店が開いていたので、そこで食事をし、ペットボトルを買ったりして出発。

ちなみに上の方はガスっているが下の方は見渡せて、この店の食堂からは、

大島の空港や、海岸に打ち寄せる白い大きな波が見えた。

台風11号がはるか南の海上にあるが、そこからの風の影響で波が大きいようだ。

IMG_1511
  三原山山頂口から海 白波がたっている

山頂口が標高555mで、三原山は758m。

標高差200mを登るだけの軽いハイキングなので、のんびり歩く。

少しくだるような感じで内輪山の方に歩いてゆく。

溶岩が流れ出した地形なので、あまり植物は育たないのだろう、周囲は背の低い木が多く、

広々とした風景である。

時々、うぐいすのへたくそな鳴き声が聞こえる。

歩いていくと、ところどころにコンクリート製のシェルターが現れる。

噴火した場合はここに逃げ込んで飛んでくる噴石を避けるわけである。

IMG_1512
  内輪山へ 上の方はガスっていて見えない
IMG_1514
  シェルター

40分ぐらい登ると内輪山の一角に出る。

ガスの向こうに溶岩の大きな塊がふたつ現れ、登山道はその間を通っている。

このほんの少し下に三原神社がある。

昭和61年、三原山は大噴火を起こし全島民が島から避難したが、

そのとき、火口から溢れだした溶岩流がなぜか三原神社の前でふたつにわかれ、

神社は無事だったという。

今、目の前にある大きな溶岩の塊は、そのとき三原神社に迫った溶岩の一部である。

IMG_1515
  登山道は溶岩の塊の間
IMG_1516
  三原神社の鳥居

ガスっていて展望は開けないのだが、そのまま内輪山を巡る登山道を歩く。

南の台風の影響なのだろう、湿気を含んだ風が強く吹いている。

歩いていると火口展望台という標識が出てくるが、火口はガスのなかである。

そのまま歩いていくと、ガスが流れて三原山の東側に広がる裏砂漠が見えてきた。

溶岩台地というのだろうか、過去の噴火で流れ出した溶岩が広がる平坦な地形。

背の低い草と、黒い溶岩が広がるばかりで、ちょっと日本的ではない風景である。

IMG_1518
  火口展望台の標識
IMG_1519
 稜線は風が強くガスが流れて周囲が見えない
IMG_1523
  ガスが流れて裏砂漠が広がった

この先から裏砂漠に降り、そこを通って大島温泉ホテルに行くのが今日の予定なのだが、

ちょうどガスが切れてきたので、試しに火口の方に行ってみた。

なんというか、凄い。

ガスが流れ、足もとからすぱっと数百m切れ落ちたような火口が目の前に現れると、

背中のあたりがゾッとする。

097 編集

火口の写真を撮り、裏砂漠を下り、1時間ぐらい非日本的な風景の中を歩いて

大島温泉ホテル着。今日はここで泊まる。

IMG_1540
  裏砂漠の溶岩流の跡
IMG_1544
  ただ茫漠
IMG_1545
  大島温泉ホテルから今日歩いてきた三原山

アーカイブ