久しぶりに湘南での歌会。
結社の選者である真中さんも出席して参加者は13名。
例によって誌面発表前なのでここには出せないが、当日、選歌した歌は、
形象として比喩として選んだ道・・・躓いただけ
そんな歌意の歌。
一読、意味が分からなかった。
で、二読しても三読しても意味が分からない。
しかし、なにか惹かれるものがあったので選歌した。
よく分からない上句からはじまって下句の屈折というのか断念というのか、
そこにつながるわけだが、その下句に惹かれたのと、
句割れ句またがりの多用が生きている気がした。
私はあっさりと「意味は分かりません」で済ませたが、
歌会では意味についていろいろと意見が出た。
歌人が詠むのだから、「形象として比喩として選んだ」のは短歌であろう、道とは
短歌の道のこと、という方向の意見が主流だった。
しかし、私はその意見に違和感を抱いた。
まず、歌人が詠んだのだから道とは短歌の道だろうという推測はいささか単純では
ないだろうか?
安易な推測がむしろ歌の鑑賞を狭くしないか?
それに具体的な答を探すように意味を考えなくてよいと思った。
作者はなにかしらの選択をした。しかし、躓き、それだけだった。
そこにある作者の思いをくみ取れば、あるいはなにかしら感じ取れば、それでいいので
あって、それ以上に空想を広げても仕方ないと思うのである。
歌会では、ことさらに歌の意味を考える人がいるものだが、
私はそういう読み方には違和感を持っている。
歌を読んで意味が分かればそれでいいし、意味が分からなければそれでもいい。
詩を鑑賞するとき、意味は絶対必要条件ではない。
意味が分からなくてもなにかしら響いてくる、なにかしら心に引っ掛かる、
そういう歌はあるのであって、
そういう歌はそういう歌として鑑賞すればいいと思っている。
で、歌会終了後、作者の弁によれば、ヘルマン・ヘッセの詩であるそうだ、
内面への道を見出したものには、
熱烈な自己沈潜のうちに、
知恵の核心を、つまりは、
自分の心は、神と世界を、形象として比喩として、
選ぶに過ぎぬ、ということをほのかに感じるものには、
すべての行為と思考とは、
世界と神とを含む
自己との魂との対話となる。
(ヘッセ詩集「新潮文庫」高橋健二訳)
なんか難しくてこれもよく分からん詩ではある(^^;
いずれにしろ、見る前に跳べではないが、
意味を考える前に感じろ、短歌もそれが大事である気はする。
歌会終了後は近くのバーミヤンで歓談。
こちらの歌会に出たのは半年ぶりだったのだが、
話を聞いていると、なんでも最近、こちらの歌会も酒癖が悪くなったようで(^^;;
歌会が終わったあと、夕方から夜の11時あたりまでバーミヤンに居座って飲んだり
しているらしい。
ドリンクバーで居座る高校生じゃあるまいし...。
バーミヤンは食事処であって居酒屋ではない。
蕎麦屋で酒を飲むのも、注文した蕎麦が来るまでの時間に軽くひっかけるから粋なので
あって、そこまで飲みたいのならしかるべき場所に席を移して飲めばいい。
いい歳した大人が何時間もバーミヤンに居座って酒を飲んでいるというのは、
いささか無粋だよね。
自分も立ち上げにかかわった湘南の歌会、いい歌会であってほしい。
無粋はやめましょうよ(^^
そんな話や全国大会の話などをして7時くらいには店を出る。
店を出ながら「酒もこのくらいに飲むのが丁度いいね」と言ったら、
前を歩いていた真中さんが苦笑いして振り返ったのだった(^^;;;
45m射ちおろし 4・4・2 2本目が緩んで落ちた(^^;