久しぶりの湘南歌会、歌会は午後からなので午前中は鎌倉を歩く。
鎌倉駅から若宮大路を観光客の行く鶴岡八幡とは反対の海の方に行き、
JRの線が道路を横切る手前を左に折れる。
そのまましばらく歩いてゆけば安国論寺の表示が出てくる。
鎌倉でもこの辺りは観光客の少ないところ。
安国論寺も訪れる人の少ない小さな寺である。
立正安国論を説いた日蓮が活動の根拠にしていたという辺りに建てられたのが
安国論寺と隣の妙法寺。、
歩いて100mぐらいのところにある寺なので、昔はひとつの寺域だったのかもしれぬ。
鎌倉のこの辺りはあまり歩いたことがなかったのだが、
久しぶりの湘南歌会のついでに梅の花が綺麗だというので訪ねてみた。
日蓮が時の幕府に立正安国論を建白したのは1260年。
その数年前、インドネシアのロンボク島で世界史的な大噴火が起きている。
成層圏まで届いた火山灰は世界各地に異常気象をもたらし、
ロンドンではこの時期に符号する大量の人骨埋葬地が発見されている。
日本でも飢饉が起きた。
いつの時代どこの国でも飢えた農民達は土地を捨て都市に流入する。
日蓮が布教活動していた鎌倉にもそういう人々が大勢いたはずである。
宋を圧迫するモンゴルの情報も貿易を通して市井の人々にももたらされただろう。
社会不安のなかで人々はなにかに頼る。
法華経を信じれば異常気象がおさまるわけもないわけだが、
遥か南の巨大噴火とその気象への影響など人々は知らないわけで、
日蓮の周囲には支持者が集まった。
しかしそれは不安定な社会状況のなかで危険な存在とも見られるわけで、
既存の宗教や権力からの激しい排撃に遭う。
この安国論寺や隣りの妙法寺のあたりも襲撃されている。
その辺りを歩いてみる。
日蓮の時代は貧しい草庵があっただけなのかもしれないが、
その後、弟子によって寺が建てられた。
大きな寺ではない。
鎌倉らしい尾根に囲まれた浅い谷のなかの小さな寺である。
山門をくぐり本堂に向かうと、その左側に白い花を咲かせた割と大きな山茶花があり、
その隣には紅梅がわずかに綻んでいる。
楽しみにしていたのだが、まだ梅は早かったようだ。
本堂の右の方に日蓮が籠っていた岩窟のあとのお堂があるのだが、
見るべきものと言えばそのぐらいの小さな寺である。
安国論寺の山茶花
安国論寺のみほとけ
木の間を栗鼠が飛んでいった。
隣の妙法寺に行ってみる。
寺としてはこちらの方が大きい。
苔の石段が有名らしく、その写真を撮りにくる連中で迷惑しているのであろう、
三脚を持ち込んでの撮影は禁止と書かれている。
本堂の奥に再び山門がありその奥に苔むした石段があるという造りは、
下の本堂はあとから建てられたものということなのだろう。
上へ上へと上がってゆき振り向くと鎌倉の海が見える。
さらに登ると尾根の上に出て、護良親王の墓がある。
妙法寺 苔の石段
護良親王の墓と鎌倉の海
後醍醐天皇の皇子、護良親王。
鎌倉末期、建武新政の時代、戦う親王と言われた皇子で最後は鎌倉で幽閉され殺される。
ちなみに宮内庁指定の護良親王の墓が他にあるので、ここは本当の墓ではないらしい。
護良親王の子、日叡が日蓮を偲んで建てたのがこの妙法寺であり、
日叡はその寺の上の尾根、鎌倉の海が見えるあたりに無念のうちに死んだ父の墓を
作りたかったのであろう。
観光客もほとんど来ない。静かなところである。
尾根を下り寺の入り口に戻ると紅梅が咲いていた。入ったときには気付かなかった。
まだ僅かにしか咲いていないが綺麗である。
ここから細い道を通って、妙本寺、本覚寺を経て鎌倉駅に戻る。
ついでに八幡まで足を延ばし、境内で売っている焼きぎんなんを歌会の土産に買っていく。
ここの焼きぎんなんはなかなか美味い。