先日の歌会のあと、軽く飲みながらわいわい話をしていた、というか、
疲れていたので話を聞きながら半分寝ていたのだが、
ふと目を覚ましたとき、隅に座っている人が目に入り、話しかけた。
「○○さんの今日の歌、上句は平凡にきて下句で飛ぼうとして飛びそこなってますよね」
相変わらずズケズケとものを言うやつではある(^^;
そのあと、それをネタに皆でまたわいわい話をしたのだが、
回りの人達が元気で、結局、言いたいことを言わずに終わってしまった。
実は当日、歌会が終わって雑談をしていた時、その人が、
「いつ歌を辞めるかわからない」と言っていたのが聞こえ、
ちょっと気になっていたのである。
確か以前にもそんなことを言っていた...。
歌を辞める辞めないは自分で決めることであり、どうでもいいのだが、
気になったのは、以前、話していたとき、
「評価されないから・・・」というようなことを言っていたこと。
結社のなかで自分の歌が評価されない、ということだと思うが、
どうなんだろ...。
そういうふうに思う人って結構いるのかもしれなくて、珍しい話ではないのかも
しれないが、他人の評価などどうでもいいことではないのか?
短歌を志したのは、評価して欲しかったからではあるまい。
悲しみとか苦しみとか、
なにかしら吐き出さなければ救われない、
そういう思いがあったとき人は歌を詠むようになると思うわけである。
苦しみを表現として吐き出したとき、
人はその苦しみをあらためて受け入れることが出来るようになるのであり、
人はそうやって救われるのであろう。
表現の原点はそこにある気がする。
そうやって吐き出したものを結社の選者が評価してくれようがくれまいが、
それはどうでもいいことである。
歌を辞めるときというのは、
詠い終ったとき、
あるいは、
自分の歌に我慢ならなくなったとき、
そういうときだと思うのである。
本当はそういう話をしたかったのだが、
疲れてもいたし回りの人も元気でわいわい話をしていて、肝心なことは話さないで
終わってしまった。